1848年カリフォルニア州西に向かう開拓者の男が
サクラメント近くの川で
金色に光る鉱物を見つける

「金が出た!」
男は興奮し叫んだ

その噂は瞬く間に
周囲に広がり
川には千人近くの人々が
群れ集まった

金発見のニュースは
アメリカ全土に伝わり
一攫千金を夢見る人が
大量に押し寄せてくる
世に云う”ゴールドラッシュ”
翌1849年には約8万人が殺到
ラッシュは頂点へ達する
そしてこの金脈を探し
集まった人々の事を
1849年にちなんで
フォーティ・ナイナーズForty-niners
(49年組)と呼んだ

彼ら49ersの間で
最も歌われた曲は
「おお!スザンナ」その様はまるで
国歌となったかのような
人気ぶりであった
西に向かう馬車の中で
皆が集まるキャンプ地で
幾度も繰り返し歌われた
作詞作曲 S.フォスター
Stephen Collins Foster

それでは譜面をご紹介

YouTubeの音源です
iPhone動画
ギター:幸塚淑夫
作詞も非常にユニークで
天候の矛盾など
奇想天外な内容は
1番から3番まで続く
「歌詞1番」
俺はバンジョーを膝に乗せ
アラバマからやって来た
恋人を探しに
ルイジアナへ行くところ
大雨が降ってるが
天気は晴れだった
太陽が暑すぎて
さすがの俺も凍えちまう
おおスザンナよ
泣かないでおくれ
俺はバンジョーを膝に乗せ
アラバマからやって来たこの曲の作曲時期は
1846年と推察されているが
発表は1847年9月11日が
最初の公演のようだ。
1848年には多くの出版社から
発売されアメリカ中で歌われる
大ヒットになった。
当時、若干二十歳のフォスターは
ピータースの要望で
出版用に楽譜を送ったが
報酬は期待していなかった
1848年ピータース版表紙

ピータースからは
感謝の気持ちとして
100ドル(50ドル札2枚)を
受けとっているが
フォスター自身は不満もなく
むしろ作曲家としての
人生を進む第一歩になった
と感じていたようだ
そして170年経った今でも
この曲は色褪せず
歌い継がれている 今回はこの辺で
力道山に武者修行を命ぜられ
若き青年は1961年に初渡米
身長2mを超える大男
20代半ばの青年レスラーでも
62年から63年の遠征は
辛い過酷な日々だった
ダイナーで食事をする時
酒場でビールを飲む時
彼は注文より先に
ジュークボックスの前に立ち
コインを入れボタンを押す
いつも同じ曲を選ぶ
「SUKIYAKI」
唯一入ってる日本の曲だ
坂本九の歌声を聴きながら
遠い故郷を思い出す
青年の名は馬場正平
彼にとってこの曲は
大切な心の支えであった。
馬場正平
(ジャイアント馬場)
1938-1999
昭和歌謡を弾き語り4日本が世界に誇る名曲
「上を向いて歩こう」海外でも「Sukiyaki」として
今でもカヴァーが絶えません
数々の記録は金字塔となり
もはや説明は不要と思います
作詞:永六輔
作曲:中村八大
歌:坂本九
通称「六八九トリオ」

昭和36年に中村八大の
リサイタルで発表された時
永六輔は坂本の歌い方に
愕然としました。

永六輔の耳には
「ウヘッフォフフフィテ」
「アハルコホッホッホッ」
に聞こえ坂本がふざけてると
勘違いするほどでした。
坂本九の歌い方に関して
ロカビリーの影響
エルビス・プレスリーや
バディ・ホリーの影響など
諸説あるようですが
譜面の読めない坂本は
ダニー飯田に譜を読んでもらい
口移しでメロディーを覚えました
その時、音符に歌詞が
正確に入っていなかった為
歌詞を伸ばして歌うよう
飯田は指導したようです。
勿論それに加え坂本九の
歌手としての独特な感性が
大ヒットに繋がったのでしょう

それでは譜面でご紹介


YouTubeより
iPhone動画
ギターシンセGR-20
演奏:幸塚淑夫
明るい曲調の中に
しんみりと心に響く歌詞
聞いても自分で歌っても
言葉に表せない感情が
湧いてくる名曲ですね!
つらい時、泣きたい時は
歌ってみましょう!
そして
上を向いて歩きましょう!
涙がこぼれないように.....

今回はこの辺で
1955年(昭和30年)公開
映画「夫婦善哉」

主演の森繁久彌が演じる
柳吉の名セリフ
「頼りにしてまっせ」は
当時、流行語になるほどだった。
そして作詞家の十二村晢は
二つの小説からヒントを得て
名曲を生む事になる
一つは「夫婦善哉」
織田作之助
1913-1947

そしてもう一冊は
「包丁」
丹羽文雄
1904-2005

出来上がった曲の題名は
「月の法善寺横丁」
昭和35年(1960年)に
東芝から発売されたこの曲は
残念にも冷遇されていた。
東芝がポップス系の強い
レコード会社であった上
”大阪ものは売れない”
というジンクスがあり
初回出荷は僅か2,500枚
まずは譜面でご紹介
作詞:十二村晢
作曲:飯田景応
歌 :藤島 桓夫

大阪出身の藤島は
浪花演歌ならと
強い自負を持っていた
彼は自身のショーで
この「月の法善寺横丁」を歌う
最初のコーラスが終わり
間奏のセリフをよどみない
大阪弁で語り始める
こいさんが わてを
初めて法善寺へつれてきて
くれはったのは
藤よ志に奉公に
上がった晩やった
はよう立派な板場はんに
なりいや言うて
長い事、水掛不動さんに
お願いしてくれはりましたなあ
あの晩からわては
わては、こいさんが
好きになりました。
藤島 桓夫の語り口に
場内は異常などよめきが起こった
レコードは大阪から火がつき
瞬く間に全国に広がり
藤島の大ヒット曲となった
浪花歌手の底力である

YouTubeの動画です
今回はこの辺で
小高い丘の城跡の
崩れかけた東屋で
その子は父を待っていた
この日の朝には
帰るはずの父であった
それが三つ目の朝となり
四つ目の夜が来て
五つ目の朝が
雨だった.........
昭和歌謡を弾き語り2特集 橋幸夫1943年5月3日生まれ
東京都荒川区出身

ブログ冒頭で
ご紹介したのは
ドラマ「子連れ狼」の
有名な主題歌です。
(1971年発売)
ドラマ「子連れ狼」より

絶妙な語り口と歌唱力!
YouTubeの動画をご紹介
遠藤実の紹介で
橋幸夫は作曲家
吉田正の門をたたく
吉田は敗戦間際に
ソ連軍に股間を撃たれ
九死に一生をえた体験から
作品には必ず
生きる喜びや
希望が感じられる
メッセージを曲の中に
込めるようにしていた。
吉田 正
1921-1988

吉田の橋幸夫への
第1印象は
「今の若者にしては、
めずらしく行儀作法を
こころえている」
と言うものだった。
橋は吉田の内弟子となり
17歳で彗星のごとくデビューする
曲は
「潮来笠」(いたこがさ)
橋はこの歌詞を
初めて手にした時
(しおくるかさ)
と読んでしまったそうだ。

それでは譜面をご紹介

YouTubeの動画です
大ヒットしたこの
「潮来笠」で
第11回紅白歌合戦に初出場
以来、紅白の常連となり
歌手としての地位を築く

彼自身が一番
印象に残っているのは
紅白デビューの時よりも
花道から三度笠を
客席に投げた時だと言う
それは紅白初出場から
数えて14回目の時であった。
今回はこの辺で
「昭和歌謡を弾き語り」作詞家の星野哲郎は
新宿歌舞伎町のある店で
盃を傾けていた。
そこへ昔馴染みのホステスから
電話がかかってくる
「先生、ご無沙汰しています。
いま大宮のクラブにいるんですけど、
遊びに来てくださらない?
昔の名前で出ていますから……」鋭敏な作詞家の耳に
この言葉は突き刺さる
書き上げた一曲は
ある女性歌手のために
レコード会社に届けられた
その頃クラウンレコードでは
日活の大スター小林旭の
新曲に関する会議が続いていた

プロデューサー馬渕玄三は
今までの小林旭と真逆の新境地を
担当ディレクターに求めた
小林旭の担当、矢野は
マイトガイの小林に
女歌を歌わせる提案をする
酒場に強い有線放送で
まずホステスから馴染ませる
そんな思案の中
星野哲郎から預かっていた
酒場の女を歌った歌詞を思い出す
「昔の名前で出ています」
この曲がマイトガイの小林に
相応しいかどうかで
星野と矢野は激しく意見を対立させた
歌詞の内容も初稿から
4回も書き直される
当時、小林旭は
ゴルフ場経営の失敗で
多額の借金を背負っていた
小林旭はこの新曲をメインに
一晩にクラブを五軒も六軒も
回って血へどを吐くほど歌い
その努力が功を奏し
レコードは2年後に突然売れ始め
売り上げは250万枚を超える

動画をご紹介
(参考文献)
塩澤実新 著
「昭和歌謡100名曲」
北辰堂出版
さて今回はもう一曲!小林旭のヒット曲をご紹介
作詞:星野哲郎
作曲:叶弦大
「自動車ショー歌」

YouTubeの動画です
この曲はオリジナルの歌詞
「ここらで一発シトロエン」が
要注意歌謡曲指定制度基準に抵触し
放送禁止処分を受けたため
「ここらで止めてもいいコロナ」に
変更して再録音したそうです。
人生、波乱万丈ですね
マイトガイ小林旭
やっぱり熱い男です!
今回はこの辺で