オスカー・アレマン Oscar Alemán
「スペイン語でもフランス語でもポルトガル語でもイタリア語でも歌えて、ダンスができてギターが弾ける。黒人で、そのうえ友達としてものすごく気が合うなんて、そんな男はこの世に二人といないわ」
1933年にデューク・エリントンの引き抜きを
断じて許さなかったジョセフィン・ベイカーの言葉である
この世に二人といない人物とは
オスカー・アレマン
Oscar Marcelo Alemán
1909-1980

1909年アルゼンチンのレシステンシアで生まれ
6歳の時には家族の楽団でダンサーを務め
ブラジル各地を巡業

しかし1921年アレマンが11歳の時
母マルセラが病死
悲嘆のあまり父ホルヘも自殺してしまい
子供たちはブラジルのサントスで
路頭に迷うことになる
年上の兄からも見捨てられ
浮浪児となったアレマンは
生きるため、お金を稼ぐために
必死の努力をする
靴磨き、新聞の売り子、物乞い
ボクサーとしてリングに立った事もある
後にサントスの酒場でカヴァキーニョという
ウクレレに似たブラジルの4弦ギターを弾き
日銭を稼ぐようになる
1924年にブラジル人ギタリストの
ガストン・ブエノ・ロボと出会い
「ロス・ロボス」というデュオを結成

1928年にはビクターでレコーディングもしている

1929年にヨーロッパツアー
1931年マドリッドのエル・アルカサルという
キャバレーで演奏してる時期に
パリで活躍していた歌手で女優の
ジョセフィン・ベイカーの誘いを受ける
Josephine Baker
1906-1975

アレマンはこの要請を受け
彼女の伴奏バンドThe Baker Boysの一員となり
拠点をパリに移す。
1935年頃にはパリのジャズ界では
誰もが認める人気ミュージシャンとして活躍

それではアレマンの演奏をご紹介
曲は「ハニーサックル・ローズ」


YouTubeの音源です
アレマンは第二次世界大戦の勃発とともに
アルゼンチンに帰郷
ブエノス・アイレスに戻り
スウィング・セッションの貴重な
レコーディングを残すも
その後、人目を避けるような
引退に近い日々を送る
1970年代に復帰し幾つかの名盤を残す
1980年10月14日 永眠

今回はこの辺で